聖書 ピリピ2章6ー11節 タイトル「十字架の死にまで従われたキリスト」
- 今回のお話しのキーワードは「従う」です。ある方には、このことばはクリスマスにふさわしくないと思われるかもしれません。私も最初はそう思いました。むしろ、クリスマスには愛とか喜びとか平和とかがふさわしいと。確かにこれらのテーマはクリスマスにふさわしいです。でも、本日の「従う」もまたクリスマスにふさわしいと聖書は語りかけているように思うのです。
- 「従う」ということばは、現代人にとっておそらく最も聞き心地が悪いことばだと思います。親に従う、先生に従う、上司に従う、権威に従う。ある方は昭和の時代、パワハラ、セクハラを連想するかもしれません。それらよりも、個人の自由、あるがまま、自分で選ぶ、気ままにの方が時代の流れにあっているでしょう。
- ただ聖書は、人が創造主である神とそのことばに従わないことが、闇の中を歩んでいることなどだと語るのです。
- しかし、すべての人の救い主であるイエス・キリストはそうではありませんでした。主イエスは父なる神への愛のゆえに、そして私たち人への愛のゆえに父なる神とその救いのご計画に完全に従われたのです。
- 本日の聖書の箇所は、当時のキリスト教会で歌われていた讃美歌であると言われています。「キリストのへりくだり」がテーマです。私たちの救い主であるイエス・キリストは、父なる神に従い、ご自分の天の栄光を捨てて、人として来られました。神の在り方を捨てたのです。大きな犠牲を払いました。しもべとしての姿をとったと言います。主人に完全に従う奴隷になったというのです。イエスさまの誕生もイエスさまの地上の歩みも父なる神のみこころに完全に従われた歩みでした。そこには不一致が全くないのです。
- 人と人との間ではそれはあり得ません。どんなに仲のよい夫婦が親子であっても不一致はあります。しかし、神の御子であるイエスは、父なる神に従いました。聖書の別の箇所では、イエスは人となられて従順を学んだと書いています。驚くべきことです。
- その上で、イエスさまは私たちを招くのです。「あなたはわたしに従いなさい」と。そして、このことばを聞けば聞くほど、イエス様に対する自分の不従順の姿を見せられます。そして、叫ぶのです。「主イエスよ。不従順な私をあわれんでください」と
- では、イエスさまの従順の究極はなんでしょうか。イエスさまがなんと十字架の死にまで父なる神とその計画に従われたことです。十字架の死と当時のローマ社会で最もみじめで苦しい死刑方法でした。あまりにもひどい死刑方法なので、当時のローマ市民権をもっている人は、十字架刑になることはありませんでした。
- 日本の戦国時代でも戦いに負けた武将やその家族が、京都の河原で人々の前で死刑にされることがありましたが、それに似ています。痛み、苦しみだけではなく、恥を与えました。これ以上反逆者が出ないようにするためです。
- しかし、イエスは何の罪も犯していないのに、十字架刑を受け入れました。なぜでしょうか。それは、神の一人子の死が、すべての人を救うための神の計画であり、イエスはそれに従ったからです。
- イエスさまは、ご自分が十字架につけられる前、父なる神に祈りました。「父よ。みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように」。そうしてイエスは十字架につき、最後に「父よ。わが霊をあなたにゆだねます」と言って息を引き取られたのです。ここに父なる神に対する完全な従順を見るのです。そして、その従順は私たちへの圧倒的な愛のゆえなのです。ぜひ十字架の死にまで従うイエスの愛、それをゆるされた神の愛を覚え、受け入れていただきたいのです。
- イエスさまは、私たちにこう語りかけます。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」この方に従うことは、決して不自由になるのではないのです。むしろ、本当の自由と喜びと希望をもたらします。それは、すでにキリストに従って歩んでいる人に聞いてください。
- 私もこのお方に従ってきて三十数年になります。わかるのは、イエスさまに従うときに喜びがあるということです。そして従う力もイエスさまが与えてくださるのです。
- このクリスマス。十字架の死にまで従われ、よみがえって今も生きておられるキリストをあげめようではありませんか。そして、この方に従って歩む喜びをいただこうではありませんか。